BLOG

台湾の記事の途中だけど、行きたてほやほやのやつを投下しておこうと思う。(すんません)


すこし時間に余裕ができた7月の上旬、いつものメンバーで「そろそろ廃墟に行きませんか」とつぶやいてみたところ、「行こう」と即レスをいただきまして、ぬるりと令和初探索へと出発することとなった。


今回の目的地は、木谷小学校跡。

昭和28年に建造された、木造校舎の小学校であり、現在は廃校となっている。


場所は山口。初の廃校探索という事で気分も高まっていた僕らは、小雨の降る早朝、関門海峡を越え山口県と島根県の県境まで車を走らせた。

小学校は人里離れた森の中に位置しているため、険しい山奥へと進んでいく。すぐ横には綺麗な小川が流れていたが、ガードレールもない一車線の狭い道...。対向車が来ないことを祈りながら進んでいった。


いよいよ目的地に着いたが、これより先は車では厳しいと、徒歩にて少し道を上る。

そして、ようやく見えてきた。

木谷小学校跡だ。

これが全体像。

玄関部分はすでに崩壊しており、入るものを拒んでいた。

正面は難しいので、突破口を探るべく裏口へ回る。

校舎の横には、なぜか重しがされた木の幹たち。ここからは入れそうにない。

さらへ裏口へと回る。

すると、もう一つの入り口が見えてきた。

なんとか校舎の中へ。

裏口からは、無残な正面玄関が。


校舎は全体的に傷んでいて、床は抜けてる箇所が多い。


さて、部屋を順番に見ていこう。

テレビ室。どんな番組をみていたのか、はたまたテレビがここにしかなかったのか。

調理器具かな?実験器具かな?

思ってたよりもはっきりと、当時の面影は残っていた。

くたびれたオルガン。

階段したの掲示物。

このくらい、生徒がいたんだろうか。

子供たちの声は、もうここには響かない。

崩壊していく現実に目を背けながら、

誰かがここに腰かけているような気がした。

随分更新をサボっていたのでこの旅行から気づけば1年以上経っていた...。

記憶を頼りに台湾を振り返るよ。


九份から台北へのバスは噂通りかなり混んでいた。タクシーで帰る観光客もちらほら。

しかし、実は台北に帰るにはもう一つ方法がある。

台北直行の便は限られているが、九份のやや近くにある”瑞芳駅”によるバスはもう少し多く運行している。

ここに行くバスがわりとある。

そうと決まれば早速乗車だ。EasyCardにチャージし忘れた僕は、現金でもたつきながら支払いを済ませる。

料金は前払いなので注意。(たしか)


そこからは電車でなんとか台北へ。iPhone、というかネットなかったらほぼ詰んでたとおもう。

グレープフルーツ風味のビール。まずいです(直球)

ホテルへついて一息。ビールを飲みながら初日を振り返りつつ、アットホームなロビーで日記を書いたりした。

こんなに人がいるところで、大きめのノートに日本語でつらつらと文章を書いたりなんかするのは、外国じゃないとできないなぁとか思ってた(なんじゃそりゃ)


二日目

雨と聞いていた台湾は嘘みたいに晴れていた。

朝ごはんはホテルのサービス。サンドウィッチとコーヒーだ。

一応好きなだけ食べれる。ピーナッツバター、昔から好きなんだよね。

パンの焼き加減も絶妙。ごちそうさまでした。

軽い荷物だけ持って大通りに出る。

ホテルから一歩足を踏み出せば、ここが台湾だったことを思い出させる、強烈な建造物たちが立ち並んでいた。

騒がしいお店。イタリア料理?
路地裏。マジでずっと歩けます。(飽きない)



海外一人旅...。当然、計画を立てるのも僕一人。


まず僕が出発前にしたことは

・航空券の予約

・宿の予約

・海外旅行の保険加入

・ルーターのレンタル

の4つ。


『航空券 格安』とか『台北 ゲストハウス』とかで検索して、福岡⇄桃園国際空港の往復航空券(エコノミーで3万くらい。往路も復路も機内食付き)と、台北駅から徒歩5分くらいの神立地ゲストハウス(二泊で5千円くらい。朝食付き)を確保。


航空券はできるだけ早めに検索してとっといたほうが安いと思う。(僕は二週間くらい前に取りました)

ここで注意したいのは、チケットは当日発券であること。

他の航空会社も一緒なのかわからないが、席は当日に指定する形なので、チケット(座席が記されているもの)は出発当日に、空港で受付して発券してもらう。

ネットで予約するのはこのチケットを発行するのに必要となる書類で、僕の場合、航空券

の購入手続きを終えた後、その書類がダウンロードでき、それをプリントアウトして空港に持って行った。


あと海外保険。これは最初はケチってたんだけど、千円ちょっとだしってことで、前日にHISの保険に申し込んだ。(空港にもATMのような機械があって、多分出発ギリギリでも入れる)

ルーターも当日に空港でレンタル(イモトのWiFi)。ただ、事前に予約したほうが時間もすぐだし楽。


さて、いよいよ出発。

自分は北九州なので、まずは福岡空港まで移動。

家を出たのは5:30。電車で西小倉駅→博多、そこからさらにバスに乗って福岡空港国際線に向かう。

これはただの博多駅。


飛行機の出発自体は10:20発なんだけど、航空券会社の当日スケジュールというやつに、"集合8:20"と書いてあって、「ええ...?早くね?」ってなったんだけど、この時間からチケット発行の受付が開始?されるんだと思う。多分。


空港に着いて早速チケットを発券しに受付へ。

前のカップルは日本語で誘導されたのに、なぜか英語で誘導された僕。シンガポールに居そうと言われただけはある。


ピリピリした荷物検査を終えたらすぐに搭乗。

機内は既に中国語だらけだし、アナウンスも基本中国語。そもそも久しぶりのフライトで、若干不安になる。


離陸後、(せっかく窓側にしたのに)ウトウトしていると、機内食が配られた。

普通にうまい!テンション上がってきたーーー!


今回利用した航空会社は、キャセイパシフィック航空。フライトは2時間半くらい。

さすが台湾。近い。


お腹も満たされて一息ついているともう着陸のアナウンスが。

到着後、空港で2万円を5.168元に換金(現地で換金のほうがお得だとか)


ここで換金所にパスポート忘れるっていうアホをかます。シャレならんぞまじで...。


長く厳しめな審査を終えて、晴れて入国!

ここからルーターの電源を入れて、いざ台北市内へ。

桃園空港MRT(最近できた、台湾の鉄道)に一時間ほどかけて向かう。車窓からは既に台湾らしい風景が見えていた。古い民家、田園。どんどん建つ高層ビル。


そして終点の台北駅に。

台北駅。大きな駅舎がどしんと構えており、ごちゃごちゃしてない。
中も立派!広間には堂々と座る人たち。そして岩手。


おおおお...いよいよ着いたぁ...。

話には聞いていたけど、独特な匂いがする。


チェックインまで台北市内散策。

おほぉ...
わあぁ...。SONY。


今回はというと台湾に残る日本を探す旅。ただ、どこを見てもフォトジェニック...。たまらんなぁ...。

路地裏。突き出た漢字だらけの看板が異国情緒を醸してる。


こちらは台北郵局。竣工は1930年で、4階部分は戦後の増築。

しっかりと綺麗なアール...。整理された区画のおかげか、大きな建物全体が良く見える。

ここにはかつて台北城があり、その門だけが残っている。これはその北門。


そろそろチェックイン。今回の宿は"Bouti City Capsule Inn"。

若者向けの綺麗なゲストハウスだ。受付の人も親切!
さすがにここでパシャパシャするわけにもいかないので絵を描いてみたよ


思っていたよりもきれい...というかカッコいい!全体的にオシャレで清潔。朝ごはん付きで二泊三日が5000円は安い!良いカプセルホテルでした。


さて、次は九份へ!

1895年から1945年までの間、日本は台湾を統治下に置いていた、という事を小学校高学年くらいで習った気がする。

当時は”軍国主義の日本は周りの国々を次々に占領し ...”みたいな負の歴史としての認識しかなかったのと、昨今の近隣アジア諸国の緊張状態もあって、あまり、行ってみたいなぁ...とは思わなかった(おっかなそうだった)。


台湾や、韓国、満州(大連)に興味を抱きだしたのは、大学一年の時に、歴史学でディアスポラとなった満州移民者について調べた時からだ。この時、戦前の日本の姿が、アジア各地に今も多く現存していることを知った。

台北市の旧栄通り町。日本風な地名は、今も多く残っている


色々調べているうちに僕は

「台湾...行ってみたさしかない...」状態に陥ってしまった。

台湾に残る日本統治下の建物さわさわしたい...。抑えられないこの衝動...。


ということで行ってきました。台北二泊三日の旅。

一人旅です。


え?寂しい?


一人旅のここがいい!

・自由に行きたいとこ行ける

・食べたい物食べれる

・いつどこでも写真撮れる(許可は取ろう)

一人旅のここがダメ!

・独り





まあ、急だったし...。(友達誘ったけど、断られました。)


せっかくだし、旅の一部始終をここに記そうと思う。

これから台湾行きたいって人は参考にしてみてね。

初海外一人旅だったから、色々戸惑ったことも多いけど、スマホがあればなんとかなるよ。


ほいじゃ、記事飛びます。

写真少なめです。すいません。

僕は、基本的にはビビりなので、夜中に廃墟だとか心霊スポットだとかに行くのは基本無理。(怖い)

ただ、それは一人の話であって、三人くらいで行けば割と先陣切って歩けたりはする。(小物感)


ということで、今回は北九州の犬鳴こと、仲哀峠にある、仲哀隧道へ行くことに。夏だしね。

バイト終わりにみんなで集まって、電車で香春町へ。

田川後藤寺行き最終電車。終電というものに初めて乗ったかも。

ちなみに、トンネルまで行ったら始発までファミレスで時間を潰す予定だった。怖い話とかによくあるファミレスで写真確認したりするのに、ちょっと憧れてたので、それがしたかった。


最寄駅(と言っても1時間くらい歩く)は香春駅という無人駅。

街灯は少ないけど、そのおかげで星が綺麗だった。

ただ、徒歩1時間は覚悟していたよりもまあまあキツく、みんな車があればなぁ、とか駄々こねながら歩いてた。(全員無免許)


40分程歩いたところで、”新仲哀トンネル”が見えてきた。こちらも廃道。すぐ隣に新しいトンネルが開通していた。

ネットがトンネル入り口全体に貼られており、侵入を完全に拒んでいた。

さすがに縮こまりながらもカメラに収まる友人ら。


こちらは新しいこともあり、大きなトンネルであった。

アスファルトから伸びる草木がなんとも言えない異世界感を醸し出している。


『なんか音が聞こえる...』

とか言い出す友人。やめて。そういうのよくない。


さて、ウォーミングアップも済んだところで、旧道のヘアピンカーブをグネグネと登りながら旧仲哀隧道へ。


ここでアクシデント。バイクの集団のようなものがライトとエンジン音を立てながら、後ろからやってきたのである。

『暴走族!??』

ビビる一行。しかし、結局彼らが僕らに追いつくことはなく、生きてる人間が一番怖いね、とか言いながらトンネルまで歩いた。


さて、

これが仲哀隧道...

灯りは僕らのライトだけ。そこには完全な闇が広がっていた。

隧道についた瞬間、内部との温度差からか、霧が立ち込め始めたのは、今回の探索で一番ビビった。(フラッシュ撮影をしなかったのは、霧のせいで光が散乱?して、よく映らなかったから。すんません)


さらに、別のサイト様や動画を拝見した時にはなかったはずのフェンスもあり、中に入ることが躊躇されるようなことばかりなせいか、多少覇気がなくなる一行。誰かがフェンスにこじ開けた穴を、一人一人くぐって中に入った。


中は別段寒くもなく、湿気と反響する声が、薄気味悪さを醸し出している。

昼に来れば、椿隧道(また今度記事書きます。)に初めて訪れた時のように、近代土木遺産としてじっくり見たりとかしたかもしれないが、真っ暗な隧道では、トンネルの内部をゆっくり見る余裕なんてまるでなかった。

ただ、モルタルが剥がれたのかそのままなのかはわからないが、レンガが見えている場所があった。写真を撮ればよかったと、後悔。


その後、トンネルを抜けて行橋側へ。こちらは徒歩2時間半...。

さすがにタクシーを利用した。

始発の時間までジョイフルでポテトとドリンクバーで時間をつぶす。これがやりたかった。

ただ、思ったより体力を持って行かれた。写真や動画にも何か映ることは...多分なかった。


免許をとろう。

そう思えた探索だった。(?)



お久しぶりの更新。

実際にここに行ったのは今年の三月頃。

犬鳴に物足りなさを感じた一行は、思いつきでここに行くことを決めた。

弾丸特攻である。


一応この隧道の読み方は "おしが” 。

多分ここを見てる人で知らない人は少ないと思うけど。


この隧道、やたら大きいらしく(隧道の地質の関係上、崩落しながら穴が広がっている)、大きいものに圧倒されたい僕としては、一度は拝みたい隧道だった。


犬鳴の疲労感と大石隧道に対するモチベの薄さからか、僕以外のメンバーは疲れ気味だった。あの大石隧道だぞ!寝とる場合じゃないぞ!

Google Map の指示通り、なにやら私道”みたい”なとこに入った。


犬鳴は車を降りてから隧道までの道のりが長かったので、あんまり歩きたくないなぁとか思ってiPhoneを見ながらギリギリまで近づいたおかげで、そいつはすぐ目の前に現れた。

ああ...やっぱこの瞬間だよね...

初対面と同時に、肩を震わすような、鼻がクッとなるような感動がこみ上げる。たまらん。

なんだかぐるぐると吸い込まれそうになる。

原始的な”穴”と錆び付いた車両通行止の文字の対比がいい。

ぽっかりと大きく開いた穴はやはり異質。

最初の方でも言ったけど、崩落中なのでごつい岩がいつ落ちてきてもおかしくない。これほんと怖い。

こんな突き出てる。えー。


ほいでやっぱ大きい。迫力は十分。

一応顔バレしないと思う一枚。比較になるかな?

崩落して下に堆積してるので、地面も3mくらい?盛り上がってる。

中はこんな感じ。ほろほろと乾いた土に覆われている。


思い切ってくぐってみた。(超危険!!)

すごくほこりっぽい。ただ、壁に触った感じではなかなかに頑丈であった。


なんとか反対側へ。でもこっちに車はないので、仕方なく戻る。

隧道の入り口側から。


1889年にできた隧道。120歳である。

ここまでほぼ穴同然の隧道は初めて見た。

ただ、訪れる人は多いのか、それは紛れもなく人の通う道であった。


帰りはレトロな銭湯によって唐揚げ(大分中津名物)を食べて帰った。至福。

あとはビールだけだったなぁ。

福岡市側からのアクセスは、落石、崩壊の恐れが高く、とても危険である。

ただ、犬鳴トンネルの内部へはこちら側からしか侵入できない。

直方側とはまた雰囲気が違う。

同じ場所に続いているとは思えない。

今回の残留物。注意書きもむなしく。

やはり、心霊スポットとしての歴史の長さからか、色々な世代のやんちゃグループが残していったゴミが散乱していた。


ゴミだけじゃなく、落書きもすごい。

写真はないが、ガードレールにも、たかしとかアキラとかいろんな人が”参上”していた。

そして、ついに見えてきた...。

うわぁ...

なんかもう、やりたい放題。

さすがにアーチ上部の”呪”の文字には笑ったけど。

ここに夜一人で来ることはできないよ...。

湿っぽさはないが、それでも直方側よりは不気味さが強い。

コンクリートブロックが動画サイトで見たものよりも綺麗に並んでいるのはなぜだろう。


さて...中は...

ブロックを登るってみる。

旧犬鳴トンネルは中間部が素掘りのままである。

そして、思ったより広い。

ただ、モータリゼーションが強まる世の中では、このトンネルじゃ力不足だったのもわかる。

トンネル内部も大量のゴミが両脇に捨てられていた。

明治17年に計画され、ようやく完成したのは昭和24年。

歴史ある近代土木遺産なのに、残念。


帰り道、犬を散歩させている地元(?)のおじいさんと出会ってお話をさせてもらった。

意外なことに、トンネルのことはあまり知らなかった。

相当悪い道だけど、なんであんなところを散歩させていたんだろう...。


とはいえ、この目で犬鳴隧道を見ることができてよかった。

それだけは言える。

福岡県には有名な心霊スポットがある。

『旧犬鳴トンネル』

僕の出身は福岡じゃないけれど、名前も噂も聞いたことがあった。

それくらいには有名な場所なのだ。

”隧道好き”として一度は生で見たいと思っていたが、そんなところに夜中に行く勇気は、正直言ってない。(昼間でも怖いくらい)

ということで、初春の3月下旬、”昼間”に犬鳴峠へと向かった。

こちらは直方方面。情報量の多いゲートが目印。

ここからが旧道となる。

一応、登山道とされているためか、思ったより綺麗な道であった。

ただ、すぐ横は高さこそないものの崖になっていて、その下には犬鳴川の上流が流れていた。

ちょっと危ない。

しばらく歩くとこんな看板が。ここで作業をする人のためなのか。はたまた登山者用なのか。


結構歩いたかな、と思ったその時、記念碑が見えてきた。

苔がいい感じ。

この記念碑は犬鳴隧道が竣工した時に建てられたものだ。

実はこの道は昭和24年に完成したこと(?)もあり、軍用道路説もあるのだけど、その証拠はないらしい。

おお...これが...

なんとも毒々しい。

トンネルの上部には”犬鳴隧道”の文字が。

それにしてもコンクリートブロックのバリケードが重々しい。

いろいろなサイト様で拝見させてもらった写真とは落書きが違うので、更新ペースは短いみたい。


ブロックの間から向こう側が見える。

ちらっと影が動くのが見えた気がしたけど、気のせいだろう。


昼間に四人で来たからか、怖いというよりは静かな場所だな、と思った。(コナミ)

後から三名様も来たので僕らは早々に撤退することにした。


続きます。

少し様子を見ようと近づいた時、中に空間があることに気づいた。

お...?

おおぉ!!??


思わず声が出た。

どうやらそいつは最初から出迎えてくれていたらしい。

奥には別のサイト様で拝見した井戸も。情報通りだ。

ただ...どうやってもこの蔦に絡まれることなく降りるのは難しそうだ...。


怖い...。


とりあえず、階段入り口に立とうとするも、足を滑らしてカメラを壁にぶつける始末。

だって怖いもん。一人だし。

でも、ここで帰るのはもったいない...。行くしか...。

決心した。

!!!!

多分すごい顔しながら降りてたと思う。体を屈めながらスルスルと降りた。


...

思っていたよりも明るい。上を見上げると木漏れ日が差していた。

下はフラッシュ撮影。パイプが見える。

目の前にはあの井戸が。

パイプが繋がれている。すぐ隣の畑に水を引いているみたいだった。

言い忘れていたが、ぬかるみの隣あたりに畑があり、それを囲むようにバリケードも設置されていたが、今も耕されているのかはわからなかった。

民家も一軒あるという話だったが、家らしきものは見つからなかった。ただ、開けた小山のような空間は広がっていた。

見つからなかった第一號から第三號までの倉庫は、そこにあったのかもしれない。


後ろを振り返ると、帰るのが名残惜しくなった。


今回挑戦したルートは、笹尾砲台跡の石碑を見ることができないルートで、ちょっと面倒くさいルートだったのかもしれない。準備不足(服装、時間帯、事前調査)だったけど、やっぱり、戦争遺跡というものは、なんとも言えない緊張感があり、それがまたいい。

あの時代に想いを馳せる、貴重な時間を過ごすことができた。


一発目の記事はこんな感じ。父さんからもらったフィルムカメラを試してみたので、ここに載せた写真はフィルムとデジカメが混ざってます。わかりるかな?

写真も文章もぼちぼち上達していったらいいなぁ...(願望)

よかったらお付き合いください!笑

中は寂しい暗闇。

窓の外からは緑とオレンジが混じった綺麗な光が差していて、それが照明となっていた。

第五號倉庫の正面には木が何本も生えていて近寄り難い。

なんの穴だろう。他のサイト様によると排水口みたい。(写真は第四號)

蔦の生え具合がいい感じ。

こういう落ちてるものを見つけるのも散策の楽しみなのだ。


さてと、最初の分かれ道に戻る。


事前に調べた情報だと、階段があって、そこを降りると小部屋があり、井戸があるとのこと。

正直怖いが、階段を降りるつもりではいた。

気合十分。でも肝心の階段がない。


さっきの分かれ道を左に行けばまだ未探索エリアだ。

よし、いこう。

左の道は、結構広くて歩きやすい。

右を見ると石垣が。少し奥に行って左手には煉瓦造りの建築物も。

右奥が第四號倉庫方向。この石垣の正体はよくわからなかった。
こちらも正体不明。内側から木が生えている様子は幻想的。


その道の先には大きな木が倒れていて、ちょうど人間がくぐれそうなスペースがあったが、日が落ちてきて、肌寒さも感じてきたので、この先は唯の登山道と踏んで、引き返すことにした。


この道でも井戸の部屋は発見できず、あー、今回は時間切れかぁ...。と悔しがりながら歩き、またあのぬかるみに差し掛かった時、最初に出会ったあの遺跡が再び目に入った。


続きます。


1886年(明治19年)

この国を護るための要塞を築くことが計画された。

その一部が関門海峡に設置された下関要塞である。


北九州市門司区笹尾山。

ここにも笹尾山砲台と言われる、海岸の船を迎え撃つ砲台が設置されていた。

出発した時間が午後3時を過ぎていたので到着したのは午後4時前。

冬の日没の早い時期なので、辺りは夕日に照らされていた。

山の上から見下ろす関門海峡はとても綺麗...、とか感心してる場合じゃない。日没したら、趣を感じるどころか恐怖しかないので先を急ごう。

アスファルトが草に覆われて、いよいよ山道という感じ。

この感じ、ワクワクが止まらない!

わ!いきなり遺跡のようなものが。

実は、高倉山堡塁の方は以前訪れたことがあったんだけど、登山経験の薄い自分にとってはすこぶるきつかった。落石に怯えながら二時間くらい(盛った?)かけて登ったから、唐突に現れた遺跡に思わずビビったけど、今回はその逆で、早すぎてビビった。

とりあえず”見てくれ”じゃよくわからないのでスルー。

すると、途中ぬかるみが出現。

わかりにくいと思うけど、写真左に煉瓦が散乱しているの見える。

これを見つけた僕は、この探索初の煉瓦に興奮して、ふつーにぬかるみに駆けていった。

ジュボ

ああ...、やらかした...。まだ新しい靴が、まるで地面にくっついたみたいに取れない...。

なんとか脱出するも靴は泥まみれ。いきなり嫌な汗をかいた。

煉瓦の正体は分からず、建物が壊れたのか、ただ放置してあったのかもイマイチわからなかった。


ちょっと落ち込みながらしばらく行くと、開けた場所が。

左右に道が分かれている。

それにしても、冬なのに藪がすごいなぁ...とか思いながら辺りを見渡していると、

!?

一瞬分からず見落としていたが、向こうはずっと、黙ってこっちを覗いていたみたい。

この初対面の瞬間が何ともたまらない。やはり、その出で立ちにはゾッとしながらも、約100年もの間、その形を残していたことに感動を覚える。

近づくと、”第四號”と書いてあった。

右書きっていいよね!

ここの窓には僕が訪れた、大久野島、高倉堡塁の弾薬倉庫と違って木枠が現存しているのだ。ああ、よくぞ残ってくれた。


すぐ左を向くと第五號と書かれた倉庫が。

見つかっちゃった...。

そんな風にそこに立っていた。


それまでの藪だらけの地面は、ちょうどその倉庫の前から小さな草と苔むした石が広がっていた。

第四號は中に、自転車とかブラウン管テレビが捨ててあったり、便座も何枚か(なんで?)捨ててあったけど、第五號の中はまるで、掃除してくれたかのように綺麗だった。

この煉瓦の積み方はフランス積みと言う。フランドル地方で生まれた積み方なので、そう言うのだと。

なんでも、煉瓦の積み方の中では最も美しいものらしい。


欧米諸国に追いつけ追い越せの時代。日本における赤煉瓦建築は、そんな時代の勢いを今に伝えてくれている。そんな風に感じた。


ごめんなさい、記事、続きます。


どうも初めまして。”ゆー”と申します。

ここは僕の訪れた場所を記録する場所です。

続けることを目標に、まあぼちぼちやっていこうと考えてます。

戦争遺跡戦前戦中戦後のものを中心に記事にしていくつもりです。

よろしくお願いします。

Instagramもやってますので、もしよかったら見てやってください。